北口雅章法律事務所

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円空の歌心

円空は、千数百首もの和歌を遺しているが、独自の世界観をもつ修験者である上、言葉も多義的で、比喩が多用されるので、難解なものが少なくない。
現・円空学会理事長にお誘いいただいて、円空学会に入会して以降、年に4回、「円空学会だより」が送られてくるが、若森康平さんという方が「短歌に見る沙門円空の心」と題して、毎回10首ずつ、円空が遺した和歌の意訳を連載されている。若森さんの意訳(=解答)を読む前に、自分なりの分析的理解・解釈を考えるようにはしている。若森さんの意訳は、大変参考になり、有り難い寄稿ではあるが、小生の理解とは必ずしも一致しない。若森さんには、意訳だけでなく、もう少し詳しい解説をしてもらえないか、と思うことが少なくない。

昨年末に送られてきた、令和5年1月1日発行「円空学会だより(季刊第206号)」に寄稿されていた若森さんの「短歌に見る沙門円空の心」は、「20」回目の寄稿であるから、既に200首の意訳を掲載された計算になる。

今回の連載で、最初に紹介されている円空の和歌は、

神嶋やはマのマサコヲカソヘツゝ通へる鳥ハ玉かとそミる

である。現代語の表記に書き換えると、

神嶋や浜の真砂を数えつつ通へる鳥は玉かとぞ見る

となる。

この歌に関する、若森さんの意訳は、

神様の住む島の浜の真砂の上を飛ぶ鳥は神様と思います

というものだ。
残念ながら、如上の意訳では、今ひとつピンと来ない。
少なくとも、上記意訳では、「真砂を数えつつ」の「数えつつ」の訳が省略されている。誰が「何故」、「真砂」の数を数えるのか?が、よくわからない。

勿論、円空の歌は、詩的で、感覚的・観念的な歌が多いので、あまり分析的に理解するのは適切ではないのかもしれない。
だが、「神嶋」というのは、特定の地名ではないようなので、円空独自の観念の世界の情景を思い描いた(幻視した)ということになろう。浜辺の砂の数など無数・無限にあるので、通常は数えない。とすれば、ここで数えられている「砂」は比喩であって、円空がこの歌の下敷きとしているのは、法華経の比喩、つまり「ガンジス河の砂の数に等しい多くの衆生」の比喩(提婆達多品第十二)が念頭にあったのではないか。
 となれば、「神の御座す嶋の浜辺で、砂(衆生)を手で拾い上げ、一つ一つ(一人一人)数えていたら、そこに鳥が飛来してきた。この鳥は、神の御霊(みたま=玉)を宿す鳥(神の化身)なんですね。」といった趣旨の幻想を詠んだものではないか。

 

【追記】(令和5年1月29日)

上記分析は、素人が、古人の和歌にヘタに手を出すと、失敗する例かもしれない。

大筋では誤ってなかったと思いたいが、円空の上掲和歌には「下敷」があることを発見した。

わたつ海(み)浜の真砂(まさご)をかぞへつつ 君が千歳(ちとせ)のあり数にせむ

(『古今和歌集』344 読み人しらず)

[歌意]大海原にのぞむ広大無限の浜の砂粒を数えて、それをそのまま、あなたのご長寿の齢(よわい)の数にいたしましょう

◇『浜の真砂』は、無数であるものの象徴としてしばしば用いられる、とのこと(以上につき、奥村恆哉校注『古今和歌集』)

[備考]

●君が代は 天(あま)つ空なる星なれや 数も知られぬ心地のみして

西行『山家集』1177)

[歌意]君が代は大空の星ともいうべきものであるよ。星の数が限りないように、いついつまでも続く心地ばかりがして。